火星は地球と同様、固体の地面と大気を持った惑星であり地球型惑星と呼ばれ ている。しかしその大気は二酸化炭素を主成分(95%)とした非常に希薄な大気 (地表面でも大気圧は6mbar)で、地球大気とはかなり異なっている。最も異な るのは、地球では水が液体(海)として豊富に存在するのに対し、火星ではわず かに水蒸気の形で大気中に、また氷として極冠域に存在するのみだということで ある。もし火星が地球と同じ様な惑星形成過程をたどったと考えると、形成時の 火星にも現在の地球と同様に豊富な水があった可能性がある。また人工衛星から 火星表面に大量の”水”が流れたような跡がはっきりと確認された。渓谷地形が 過去に液体の水が流れたためにできたものならば、過去にどれだけ水が存在しそ れがどこに失われたのか、という火星大気の進化過程に関する非常に興味深い重 要課題に直面する。過去に水が存在しそれが失われたとすれば、その一部は宇宙 空間へ散逸したと考えられる
火星は地球とは異なり固有磁場をもたず(あるいはあっても非常に弱い)、太 陽風と大気とが直接に相互作用することが予想される一方で、重力が小さいため、 大気は比較容易に脱出速度を越えるエネルギーを獲得し、散逸が可能となる。現 在の大気散逸過程を詳しく知り、escape fluxを見積もる事が出来るなら、それを 火星大気の進化過程に当てはめる事で、過去から現在に至るまで散逸した水の量 を推測する事ができる。 大気の宇宙空間へ散逸は、いくつかの人工衛星によって観測的に示されている。 現在の火星大気が宇宙空間に散逸していることはソビエトの人工衛星PHOBOS 2に 搭載された粒子計測器ASPERAの観測から明らかとなっている。Lundin et al.[1990] はPHOBOS 2の観測結果から火星の夜側電離圏から磁気圏尾部へ流失するO+の量は 3×1.E+26 ion/secにものぼるという見積をした。これは、1.E+08年以 内に現在の火星の全酸素を消失させうるほどの量である。火星大気の散逸が実際に 観測された事はこれが初めての事であるが、PHOBOS 2は十分な観測を行う前に制御 不能になり、火星大気の散逸のメカニズムを詳しく調べるには至らなかった。一方、 火星のみならず地球においても、磁気圏へと流出する予想を越えるO+の存在が最 近のGEOTAIL衛星の観測により確認されており、そのメカニズムや定量的理解は磁気 圏物理学の今後の大きな課題として注目されている。
同じく磁場を持たない惑星である金星についてはアメリカのPioneer Venus Orbiter により詳しい磁場、電場、粒子などの観測が行われてきた。このため火星よりも詳し く大気の散逸過程が議論されている。Lumann et al.[1980] は、金星電離圏の磁場と 電子密度の観測から、太陽風の動圧によって ionopause (太陽風の動圧と電離圏のプ ラズマ圧のバランスする領域)の形状や高度が変化することを示している。Ionopause より上層では太陽風との相互作用によって電離圏プラズマが剥ぎ取られ(ion pick up)、尾部へと加速さ れていくメカニズムが考えられている。このような金星のionopause における太陽風との相互作用を火星に当てはめ、火星大気の散逸フラックスを推測する 事はこれまでも行われてきた。しかし、金星同様、ダイナミックかつ複雑であると予想 される火星の ionopause の形状やその振る舞いを知るためには、火星周回衛星による 大気や磁場環境の直接観測が必要とされている。
大気に残された、散逸の”痕跡”として火星や金星大気中の重水素/水素比(D/H 比)に興味がもたれてきた。地球の大気は磁場によって太陽風からシールドされている ため、他の地球型惑星に比べ比較安定に大気の進化過程を経てきたと考えられる。この ため金星や火星のD/Hは地球の海水のD/Hを基準にし、比較議論されている。一方 大気からの散逸の過程で、水素(H)よりも重く逃げにくい重水素(D)は相対的に多 く大気中に残り、大気のD/Hの値は進化過程において増加する。惑星生成時に水が存 在し、そのD/H比が惑星間で等しいとすると、散逸により現在の火星大気のD/H比 は増大し、現在の地球の海水のD/H比よりも大きくなっていると考えられる。
火星大気のD/Hの値は地上からの大型望遠鏡によるHDOの3.7μm吸収線の観測か ら推定されている。 Owen et al.[1987] によって9±4×1.E−04という値が得ら れているが、 これは地球の海水のD/H(1.6×1.E−04)の6±3倍に相当す る。また、金星では1.6×1.E−02という値が算出されており(Donahue et al., 1982)、太陽風と大気の相互作用による大気の散逸の結果、これらのD/H増加が生じ たものと考えられている。 注意しなくてはならないのは、これらのD/Hの値は大気の散逸結果のみを示してお り、その値が散逸した水の量に直接対応しているわけではないという事である。D/H を散逸した水の量に結びつけるために重要なのは、大気の進化過程においてどのような 物理・化学過程が散逸を引き起こし、現在のD/Hになったのかである。これらの物理 化学過程からそれぞれの原子のescape fluxを決めることで、散逸量を見積る事ができ 、更に散逸の結果として生じる現在のD/Hの値を説明できる。そのためにまず、現在 の大気における水素、重水素原子の散逸メカニズムを調べることが重要である。特に無 磁場惑星においては太陽風と大気の相互作用が散逸に大きな役割をはたしていると考え られているため、太陽活動度と原子の空間分布やその時間変化の特性を人工衛星の観測 により詳しく調べる必要がある。
超高層大気の領域は、太陽からの紫外線放射や太陽風に対して極めて敏感に 応答し、さらには、下層大気から伝搬してくる大気波動の影響によっても温度 や循環の場が変化すると考えられている。事実、Mariner、Mars、Vikingのデー タは、火星の熱圏温度が季節によって140Kから400Kまで非常に大きく 変化していることを示している(McElroy et al., 1977)。このような超高層 大気の温度、組成、循環の構造と、それらを決定している様々な要因との関係 を定量的にとらえることが、現在の課題である。1998年、日本初の惑星探 査機であるPlanet−Bの打ち上げが予定されており、搭載される紫外分 光計(UVS)の観測から、火星超高層大気・電離圏の物理・化学過程について、 これまでのイメージを塗り変えるようなダイナミックな描像が得られるものと 期待されている。そしてそれは、火星の大気進化を考える上でも必要不可欠な 情報となるであろう。以下に、観測の目的と、その観測対象をまとめる。
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観測目的 観測対象
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太陽風と火星超高層大気の直接 水素コロナ HLyα 121.6 nm
相互作用 酸素コロナ OI 130.4 nm
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重水素/水素存在比の測定によ DLyα 121.533 nm
る火星大気変遷過程 Hlyα 121.566 nm
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火星大気光分光観測による電離 COカメロンバンド(180-260nm)
圏・熱圏ダイナミクス CO2+ダブレット(288-290nm)
OI 297.2nm
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火星オーロラ OI 130.4nm
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火星下層大気中のオゾンおよび O3ハートレー帯吸収(200-300nm)
ダスト ダスト・雲粒子のMie散乱
(200-300nm)
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Planet−Bでは火星大気中の水素原子や重水素が散乱するHLyα (中心波長121.567nm)、DLyα(中心波長121.534nm)を観測し、 それぞれの信号強度から二次元的にD/Hの空間分布や時間変化 (空間分解能:3°×1.4°、時間分解能: sec) を観測する。火星周回人工衛星による高時間空間分解能のD/H観測は 従来行われた事がない。これまで十分な観測が行われてこなかっただけに かなり大気散逸に関する重要な情報が得られると期待できる。
本講演では、大気の散逸のプロセスについて概観し、これまでの観測や理論的 考察から推測されている大気の散逸量をまとめる一方で、大気の進化を考える際 のキーパラメータを明らかにする。 また、Planet−Bの観測から得られる物理量の空間分布や時間変化をも とにして描かれる「現在の火星超高層大気の描像」と個々の散逸のメカニズムと を結びつけるとともに、D/Hを惑星大気の進化の指標として使用することの可 能性を探ることを目的とする。