■研究の参加者。
  柴田隆(名大)鷹野敏明(千葉大)塩原匡貴(極地研)岩崎杉紀(防衛大)白石浩一(福岡大)

■研究の目的
 北極域における気候変動要因の一つとして、北極を取り囲む中緯度地域から流入する大気汚染 性エアロゾル(通称、北極ヘイズ)が、氷晶核(氷雲粒子を生成する核)の個数濃度を著しく減 少させ、その結果として予想される氷雲粒子の個数濃度減少に伴う気候影響が様々に研究され ています。しかし北極ヘイズの氷雲への影響は、「氷晶核の減少」がサンプリングによって測定され たのみで、実際に氷雲粒子の個数濃度の減少が観測で確認されたことはありません。この研究の目的は、 北極観測拠点のニーオルスンにおいて、ミー散乱ライダーとミリ波雲レーダの同時観測により北 極ヘイズ濃度と氷雲の粒子個数濃度・粒子径との関係を求め、北極ヘイズが氷雲粒子の個数濃度 を減少させる効果についての仮説を実証することでです。

■研究の背景
北極海氷の著しい後退は温暖化に伴う気候変動の顕著な例として注目されています。海氷後退の 原因はいまだに不明ですが、北極の気候を決定する重要な要因として、雲が、放射や降水過程 により、海氷・雲・エアロゾル・大気間の複雑なフィードバックを通して、気候に決定的な影響 を与えていることが知られています。しかし、特にエアロゾル・雲の間の相互作用の理解が不十分 であることが指摘されていて (IPCC, 2007)、エアロゾルによる雲粒子の変化(間接効果)が上記 フィードバックに大きく影響する可能性が指摘されています(Jackson et al., 2012)。
北極域内にはローカルな大気汚染源はほとんど有りませんが、北極域を取り囲む汚染物質の主要排出 地域であるヨーロッパ、北米、および東アジアなどからの長距離輸送が盛んとなる春季に、北極 域独特の大気汚染として「北極ヘイズ」が発生します(Quinn et al., 2007)。北極ヘイズは北 極域の大気環境にさまざまな影響を与えますが、北極ヘイズが存在する環境では、氷晶核の個数濃 度が数桁減少することが報告されています(Borys, 1989)。北極ヘイズ粒子の代表的な成分は硫酸ア ンモニウムなどの硫酸塩であるため、この効果は硫酸塩誘起凍結抑制(SIFI)効果と呼ばれています。氷 晶核が減少することにより、氷晶核から生じる氷雲粒子の個数濃度が減少することが予想されます。 従って、北極ヘイズが存在する環境では、大気中の水蒸気は個数の少ない氷粒子に昇華し、氷雲 粒子はより大きな粒径に成長することが推測されます。大粒径の氷雲粒子は落下速度が大きく、氷粒子に昇華した水 蒸気を降水としてより効率的に大気から取り去ります(効率的に脱水します)。脱水され水蒸気の少ない 大気は水蒸気による温室効果が小さく、放射冷却が進行すると予想されます(温暖化を抑える効果)。
このような北極ヘイズの間接効果に関して、種々の先行 研究がありますが、実際に測定されたのは北極ヘイズが存在し た環境で氷晶核の個数濃度が数桁減少したというBorys (1989)のサンプリングによる結果のみです。ところで、 サンプリング測定による氷晶核の数濃度と実際に大気中 で生成した氷雲粒子数濃度はしばしば大きく食い違うことが知られています。従 って、実際の大気について、前段落後半の北極ヘイズの気 候影響に関する観測的な裏付けは極めて弱いと考えられます(例えば、 Grenier et al., 2009)。旧ソ連崩壊以降、北極ヘイズは長期 的には漸減の傾向にあります(Quinn et al., 2007)が、前段落 後半の説明では、これは温暖化を抑える効果を減じます(す なわち温暖化を進めます)。以上のような状況で、北極気候 変動に関連し、北極ヘイズと氷雲の関係についての観測的 な実証は速やかに解決すべき課題と考えられます。
さらに、氷雲生成に関する氷晶核の働きという、より一般的な問題に関して、SIFI 効果が有効 か否かは、熱帯圏界面付近の巻雲(氷雲)生成に伴う脱水過程の研究で焦点になっている、水溶 液エアロゾルが氷晶核として不活性ではないか、という疑問(Shibata et al., 2012)について、解 答のヒントを与えることが期待されます。これは、両領域のエアロゾルの主組成は水溶液エアロゾ ルであることから(熱帯圏界面付近では硫酸水溶液エアロゾル、北極ヘイズの場合は潮解した硫 酸塩エアロゾルで、いずれも水溶液エアロゾル)、氷雲粒子の生成については均一核生 成理理論によりほぼ同様の説明がされることによります(Koop et al., 2000)。
 本研究では、ミー散乱ライダー観測により、北極ヘイズを含む様々な種類のエアロゾルの濃度、 相状態(液体か固体か)、粒径、および雲の濃度分布と相状態の各高度分布を求めます。北極へイズ や氷雲が分布する高度はミー散乱ライダーの散乱特性から知ることができます(Ishii, Shibata et al., 1999; Shibata et al., 2012)。また、ミリ波雲レーダ観測によっても、雲の高度分布を求めます。氷雲 粒子の粒径、個数濃度はミー散乱ライダーとミリ波雲レーダの同時観測結果を連立して解析する ことにより得ることができます(Okamoto et al., 2002, “レーダ・ライダー法”と呼ばれる)。
 このようなレーダとライダーの同時観測と結果の連立解析により、北極へイズの濃度と氷雲粒 子の個数濃度・有効径の間の関係を明らかにします。特に、北極ヘイズが存在する空間で生成した 氷雲粒子の個数濃度が、北極ヘイズが存在しない空間で生成された氷雲粒子の個数濃度と比べて 小さいか否か、および氷雲粒子の粒径が大きいか否かを、得られた関係から明らかにします。さら に、この結果をもとに、実大気中の種々の条件下でSIFI 効果が有効に働いているかどうかを判定 します。
 北極ヘイズは北極域独特の大気汚染の一形態として1970 年代より知られていますが、氷晶核への 影響についての研究は上に述べたような状況にあります。この研究は、従来の研究で検証が十分でない まま、さらなる研究の根拠とされてきた北極ヘイズの氷晶核減少効果が、実際に氷雲に反映され ているか否かを確認する試みです。この研究では、わが国が北極域で培ってきた地上設置のライ ダーおよびレーダのリモートセンシング観測技術を利用し、従来の研究手法では北極域の 冬春季に実現することが困難であった北極へイズと氷雲の同時連続観測を長時間実現します。
 
参考文献
IPCC, (2007), Climate Change 2007: Synthesis report, Geneva, Switzerland.
Quinn et al., (2007), Tellus, 59B, 99−114
Borys, (1989), J. Atmos. Chem., 9, 169−185.
Grenier et al., (2009), J. Geophys. Res., 114, D09201, doi:10.1029/2008JD010927.
Shibata et al. (2012), J. Geophys. Res., 117, D11209, doi:10.1029/2011JD017029.
Koop et al., (2000), Nature, 406, 611-614.
Ishii, Shibata et al., (1999), Atmospheric Environment, 33, 2459−2470.
Jackson et al. (2012), J. Geophys. Res., 117, D15207, doi:10.1029/2012JD017668.
Okamoto et al., (2003), J. Geophys. Res., 108(D7), 4226, doi:10.1029/2001JD001225


■研究計画
 この研究はノルウェーのスバールバル諸島スピッツベルゲン島北西部に位置するニーオルスンに 整備された国立極地研究所の北極基地を地用し、その基地近傍に設置するミリ波雲レーダとマイ クロパルスライダー、および同基地建物内に設置するミー散乱ライダーを用いて実施します。観測 は北極ヘイズが発生する春季から終息する初夏にかけて(3〜6 月)、それぞれの測定器を連続で動 作させ、北極ヘイズおよび氷雲のデータを連続的に取得します。ミリ波雲レーダとミー散乱ライダ ーの同時観測によって得られたデータを連立解析し(レーダ・ライダー法、Radar-Lidar 法)氷雲 粒子の個数濃度、粒子径などの微物理量を求めます。またミー散乱ライダーの観測結果から、同様 に北極ヘイズの微物理量を求めます。レーダ・ライダー法とミー散乱ライダーの観測結果から、北 極ヘイズと氷雲個数濃度の関係を明らかにします。

□2013年度の計画
 初年度はじめに、研究参加者全員による研究計画の実施会議を開催し、本研究の目的・意義・ 計画の詳細を再確認したうえで、本研究を開始します。その後まず、ライダー装置の準備・設置や 現地施設の整備などを夏季に実施します。なお微小出力ライダーであるマイクロパルスライダー (MPL)による補助的な観測(次ページ参照)は本研究の全期間を通して実施される予定です。 本研究の対象は北極ヘイズとそれが存在する環境下で発生する氷雲ですので、ミー散乱ライダ ー観測は春から初夏の四ヶ月間、3 月から6 月にかけて実施します。ミリ波雲レーダのニーオルスン への設置は25 年夏季に計画しており、従って最初のミー散乱ライダーとの同時観測期間は上記 の平成26 年3 月から6 月の予定です。

●各測定器、データ、および数値モデル
各観測装置、データ、および数値モデルの状況は以下の通りです。

◇ミー散乱ライダー:ミー散乱ライダーは代表者・柴田により試作されたものを観測期間中ニ ーオルスンに搬入・設置して用います。このライダーはライダーとしては最も一般的なフラッシュ ランプ励起のNd:YAG レーザ基本波(1064nm)と第二高調波(532nm)を用い、地表付近から高 度12km 付近までの比較的低高度のエアロゾルと雲を高精度で観測できるよう最適化されています。 同様のライダーは熱帯圏界面付近の巻雲観測に用いられていて、熱帯のエアロゾル観測や巻雲の 観測で成果を挙げてきました(1)、(2)。ミー散乱ライダーはエアロゾル・巻雲粒子の高度分布と二波長測 定による粒径推定が可能です。このライダーは、分解後、各部分は一人で持ち運びができる 程度の重量・体積に梱包することが可能で、輸送は比較的容易です。輸送後1日程度で組立・ 調整を完了し観測を開始することがでます。春−夏季の連続観測には急な降雪・降水に対応する ため無反射コーティングを施したガラス窓を通した観測が必須です。観測に先立ち、屋外作業 が比較的容易な夏季、極地研究所ニーオルスン基地・建物の天窓の一部をライダー用の窓に改造 し、ガラス窓を通した観測が可能とします。

◇ミリ波雲レーダ:ミリ波雲レーダは95GHz のミリ波を用い、雲粒子からの散乱を高感度で受 信します。北極域の雲観測のために分担者・鷹野によって北極域の雲観測用に新たに試作されたレ ーダで、国立極地研究所の予算により、25 年夏季、国立極地研究所ニーオルスン基地に設置予定 です。設置後はほぼ連続的な観測が計画されています。

◇レーダ・ライダー法:本研究ではレーダとライダーのデータを連立解析して雲粒子の個数濃 度、有効粒子径、などの微物理情報を求めます。レーダ・ライダー法による解析は、この手法の 経験が豊富な分担者・岩崎が担当します。(3)

◇マイクロパルスライダー(MPL):LD(半導体レーザ)を用いた小出力のライダーです。 LD はフラッシュランプ励起のNd:YAG レーザに比べてより長時間安定に動作するため、長期間の モニタリングに向いた装置です。過去南極の極成層圏雲の検出などにも利用されました(4)。一方、 出力が小さく特に太陽が現れる昼間(北極では夏季)は背景光ノイズによる測定誤差が大きくなります。 このため本研究では長期的な状況を捕らえるための補助的な装置として用います。MPL は分担者・ 塩原によってすでにニーオルスンに設置されており、連続的にデータを取得中です。

◇気象データ:氷雲の生成を考察するには高度ごとの気温、湿度などの気象データが必須です。 ニーオルスンではラジオゾンデを用いた気象観測がドイツ極地研究所によって毎日定時に気 象業務として実施されています。ドイツ極地研究所(AWI)とはこれまでに種々の研究プログラム で研究協力体制を築いてきており、今回の研究に際して、気象データの提供が得られるよう研究 協力の交渉にあります。

◇微物理数値モデル:観測データを解釈し各過程を解明するために用いるエアロゾル・氷雲微 物理数値モデルとして、代表者・柴田は、個々の巻雲粒子の粒径の履歴を追うラグランジュタイ プのモデルをボックスモデルとして試作しています(5)。これとは独立に分担者・岩崎は粒径分布の 時間変化を追うオイラータイプのモデルを、同じくボックスモデルとして開発しており(6)、同一の 微物理過程を特徴の異なるモデルで独立に数値実験し信頼性を確保します。モデルで仮定したよう な北極ヘイズ粒子中での氷核生成と、実際に観測された巻雲粒子濃度が矛盾しないかなど、基本 的な雲粒子生成過程を、微物理数値モデル実験により、観測結果と比較しながら詳細に検討します。


参考文献
(1) Shibata, T., et al., (2007), J. Geophys. Res., 112, D03210, doi:10.1029/2006JD007361.
(2) Shibata, T., et al. (2012), J. Geophys. Res., 117, D11209, doi:10.1029/2011JD017029.
(3) Iwasaki, S., et al., (2004), Geophys. Res. Lett., 31, L09103, doi:10.1029/2003GL019377.
(4) Shibata, T., et al. (2003), J. Geophys. Res., 108, 4105, doi:10.1029/2002JD002713.
(5) 櫻井, 柴田, (2012), 日本気象学会秋季大会予稿集.
(6) Iwasaki, S., et al., (2007), Atmos. Chem. Phys., 7, 3507?3518.